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わが街歴史探訪2012年5月5日号掲載
駿府城の過去・現在・未来
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駿府城天守閣(渡辺重明画伯画) |
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大御所徳川家康公 |
慶長13(1608)年の正月、再び駿府城天守再建の工事の命令が発せられると、8月には五層七重の天守上棟式が行なわれました。築城は戦争と同じで、猛スピードが鉄則です。家康の三度目の駿府城再建は、全国の城の中の城として、絶大な権力を持った徳川家康のカリスマ性≠放った特異な城といえます。
天守の外観を知る記録類が無いと言われてきましたが、天守の研究も進み、その概要が次第に分かってきました。
幕府御用絵師の絵が現存し、幕府大工頭は駿府城や二条城、江戸城、名古屋城天守を造営し、いずれも姿や形が共通しています。今回明らかになった日光と和歌山の東照宮絵巻に描かれた駿府城天守も名古屋城天守などと共通し、この絵の指図を応用すれば、正確な駿府城天守の姿が図面に落とせると考えられます。
宮内庁書陵部所蔵の「駿府政事録」(抜粋)には、林羅山(はやしらざん)が著した「御天守模様之事」として指図以上に正確で詳しい概要が書かれています。この絵と古文書の情報から、天守再現に大きな信頼できるヒントとなります。
二人の幕府御用絵師(狩野探幽と住吉如慶)は、約370年前に日光東照宮と和歌山東照宮の絵巻きに駿府城天守の姿を描き残しました。
駿府城天守が完成すると、最上階で上棟式が行われ、「慶長十三年八月二十日午の刻(現在の正午ごろ)、駿府七重の殿守(天守の意味)上棟これあり。大工中井大和守槌を打ち、これにより賞として従五位下大和守に叙任す。薄銭千貫文、銀八袋(一袋に十枚入り)、刀一腰を給う。大工各々に賜物これあり。棟に五色幣三本、いずれも薄板染物なり。弓に張り矢を立てて、大御所ならびに将軍家天守に登り上棟の儀式を上覧したまう」(「御天守模様之事」林羅山著)。
また天守についても記しています。
天守模様之事
石段 10間×12間、但七尺間 四方落縁有
二之段 10間×12間、同間 四方有
三之段 (二階と同じため省略)
四之段 8間×10間、腰屋根・破風・鬼瓦
いずれも白鑞、懸魚銀ヒレ有・鰭・サカワ同銀 釘隠同断(銀)
五之段 5間×8間、腰屋根・唐破風・鬼板いづれも白鑞・懸魚・鰭・逆輪釘隠しいずれも銀
六之段 5間×6間、屋根・破風・鬼板は白鑞、懸魚・鰭・逆輪・釘隠物見之段、天井組入・屋根銅をもってこれを葺く
軒瓦は鍍金 破風は銅、懸魚・鰭・銀筋黄金
破風の逆輪は銀・釘隠は銀、鴟吻黄金(金の鯱鉾のこと)
駿府城天守は、指図がないから再建は不可能と言われてきましたが、これらの史料から、天守は指図以上に多くの裏付けとなる根拠(情報)が明らかになったのです。
◆ 黒澤脩さん ◆ 郷土歴史家。昭和21年生。 |