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わが街歴史探訪2012年3月3日号掲載
駿府城の過去・現在・未来
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今川氏を滅ぼし、駿河を抑えた武田信玄の雄姿 |
今川氏を滅ぼした武田氏は、駿府より江尻(清水区)を優先し、城と城下を造ります。その武田を滅ぼした家康は、五カ国の領主(136万石)にふさわしい城を駿府に築城します。城の実態は不明ですが、「家忠日記」には天正13(1585)年に工事開始、同15(1587)年に本丸・堀・二の丸の石垣完成(現在の駿府城の本丸・二の丸部分)。天守は16(1588)年3月に着工し、第一回の駿府城は翌年の17(1589)年に完成します。
築城は戦争と同じで、突貫工事でした。史料を分析すると、駿府城は天守と小天守を持った見事な城で、今川氏屋形のイメージを覆す画期的なもので、信長の安土城をまねたと思われます。家康は駿府城を造る前の天正10(1583)年5月15日、信長に招待されて安土城を見ています。ところが6月2日、信長が明智光秀に本能寺で襲われると、今度は家康の暗殺計画が起こり家康は必死で浜松に逃げ帰ります。後に駿府に移った家康は、駿府城を立派に建造し防備に専念したのです。この時の家康の領地は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を治める136万石の領主だったのです。
安土城をまね、頑丈な石積の城郭であったと、「家忠日記」に記されています。使用した石材や木材の出所は不明ですが、一部「牧永」の木材が使われたと記されています。その「牧永」とは葵区牧ヶ谷で、駿府城築城に尽力したのが浜松大工衆団でした。
天正18(1590)年、秀吉は、小田原征伐で家康を先鋒衆に命じ出陣させます。戦闘は家康の功績で勝利しましたが、秀吉は駿府から家康を関東に追い出します。理由は、豪華な駿府城完成に秀吉が不快感を表わしたためといわれています(「静岡県の中世城館跡」より)。結局、家康は完成した城にわずかしか滞在できず、再び駿府に来たのは17年後の慶長12(1607)年でした。
次回は「大御所家康の駿府城築城」について。備考 武田家臣穴山梅雪築城の江尻城(1570年)は、徳川との対決に備えた駿河防備の大規模なもの。「観国楼」と呼ばれた国内最初の天守を供えていたという
◆ 黒澤脩さん ◆ 郷土歴史家。昭和21年生。 |